観光は、本来「地域と来訪者のどちらにもメリットのある関係」であるべきです。
果たして、今のままで本当にそれが保てるのか——地元・奥三河に暮らす人間の一人として、あらためて考えています。
観光客が増えることは、喜ばしいこと?
近年、奥三河の各地でも観光客の増加を実感する機会が増えてきました。
SNSやテレビで紹介されると、“知る人ぞ知る”だった場所にも遠方から人が集まり、一気に賑わうようになります。
それ自体は決して悪いことではありません。
自分たちの暮らす町の美しさや魅力が広く知られ、「訪れてよかった」と言ってもらえるのは、やはり嬉しいものです。
地元の負担ばかりが増えていく
その一方で、地域住民の負担だけが増えてしまう現実もあります。
駐車場の整備されていない場所に次々と違法駐車をされ、交通が麻痺する。ゴミの放置、私有地や立入禁止区域への無断侵入など、問題は多岐にわたります。
そして、こうした対応や後始末を担っているのは、たいてい現地に暮らす住民たちです。
いつしか義務と負担へ
奥三河には、地元の方々のご厚意により開放されてきた観光スポットが数多く存在します。
絶景ポイント、季節の花が咲く里山、ホタルの名所、静かな神社や遊歩道など、その多くは本来“私的な空間”でありながら、「見てほしい」「喜んでもらえたら嬉しい」という極めて純粋な思いから訪問者を受け入れてきたはずです。
ところが近年、その“好意”がいつの間にか地域の義務や負担へ、そして苦痛に変わりつつあるという切実な状況があります。
「せっかく見せてあげているのに、迷惑ばかりかけられる」──そんな声を耳にするたび、やるせない気持ちになります。
“無料”から“循環型”の観光へ
これからの観光は、「無料でばらまく集客」から「責任と配慮が循環する仕組み」へと移行すべきだと私は考えています。
たとえば、河原でのBBQについては、すべて予約制・チケット制とし、一人100円程度でも利用料を設定するだけで、状況は大きく変わるはずです。たとえわずかな金額でも「支払う」という行為を通して、利用者の側に「場所を大切に使おう」という意識が自然と生まれやすくなります。
一方で、それすら負担に感じるような人たちは、そもそも公共の場で節度ある行動をとることが難しいケースも少なくありません。料金設定には、金銭的な意味だけでなく、「きちんと使う気がある人」とそうでない人とをゆるやかにふるい分ける効果もあるのだと思います。
多くの人は「話せばわかる人たち」
もちろん、どの地域にもマナーを守らない来訪者は一定数います。それはある程度、仕方のない部分もあるかもしれません。それでも、大多数の観光客(外国人を含めて)は、きちんと説明を受ければ理解し、協力してくれる人々であると私は信じています。
なぜ有料化が必要なのか、どこに駐車すべきか、どのような行動が迷惑につながるのか。
こうした点を事前に明確に伝えるだけで、多くの人は納得して行動してくれるはずです。
「お金が地元に流れる」ことを前提にした観光へ
観光として広く発信するのであれば、どんな形であれ、地元に還元される構造が必要です。
行政でも、お店でも、宿泊施設でもよい。来訪者が使ったお金が、地元の誰かの生活を支える──その流れがなければ、ただの“地域資源の浪費”に終わってしまいます。
逆に、そうした構造が整っていない場所であれば、あえて広くは紹介せず、「知る人ぞ知る名所」として静かに守っていく選択もまた、大切な地域に対する愛のかたちだと感じています。
「お金をもらうこと=悪」ではない
地方では、「お金なんかもらったら申し訳ない」と考える、昔ながらの奥ゆかしさや気遣いも今なお大切にされています。そうした精神があったからこそ、これまで多くの観光客が気持ちよく訪れることができたのだと思います。
しかし、来訪者の数も質も多様化している今、「申し訳ない」では済まない現実的な負担も確実に存在しています。
お金を受け取ることは、単なる“利益”ではなく、関係を持続させるための礼儀でもある。
そう考え直すことが、今の時代には求められているのではないでしょうか。
お互いが気持ちよくいられる観光のかたちを
これは特定の誰かを責めたいという話ではありません。
ただ、地域を愛する一人として、これからの観光が「地元と来訪者、どちらにとっても気持ちのいい営み」として続いていくために、そろそろ少し立ち止まって考えてみてもいい時期なのではないか──そう感じたからこそ、地元の一人として今の思いを文章にしてみました。

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