第3話:拡散文化と責任なき社会

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連載「超・情報化社会を生き抜く──自分らしさを失わないために」

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SNSで「これはひどい」と思った投稿を、シェア、リポスト──。
拡散という行為は、いまや日常の一部になっています。
けれど、私たちはその「拡げる」という行為が、
時にどれほど大きな力と影響を持つかを、どれだけ意識しているでしょうか。


「バズった奴には何を言ってもいい」という空気

たとえば、SNSで何かが「バズる」と、
その人物や発言に対して、まるで“公共物”のように振る舞う人々が現れます。

ちょっとした言い間違い、誤解を招く表現、あるいは過去の行動。
「これってどうなの?」という最初の声があがると、
次々にそれを引用し、拡散し、誰もが批判の一打を加えていく。

しかも、そのとき人々は思っているのです。

「別に私ひとりがやったって大したことじゃない」

けれど実際には──
百万人が1回ずつ殴ったら、1人が100万回殴られたのと同じです。


かつては殴り合いにも「限界」があった

昔の喧嘩は、もっと原始的でした。
子ども同士なら拳を交わして、
どちらかが泣いたら終わりというルールが、なんとなくありました。

私自身、子どもの頃に殴られたこともありますし、
叱られて泣いた経験もあります。
だから、殴る痛みも殴られる痛みも、ある程度は知っていました。

けれど今は──
人は殴らない。
その代わり、「言葉」や「拡散」で、何百万人が同時に攻撃する時代です。

それは、痛みを伴わないぶん、抑制もない。
自分の手は汚れないが、相手は確実に傷ついていく。
見えない暴力の時代です。


「拡散」は思考を省略する

あなたは、なぜそれをシェアしたのか?
本当に自分の意志で?
それとも、空気に飲まれて?

現代の「拡散文化」が怖いのは、
考える前に押せてしまうことです。
そして、「私はただ回しただけ」「私も見ただけ」と言えてしまうこと。

この構図は、戦中の「非国民」などの言葉に重なる部分があります。
誰かが最初に指を差したら、皆がそれに倣って吊るす。
自分は加害者ではないつもりでいながら、加担している。


責任の拡散と、感情の快楽

拡散によって何が起きるかは、拡散する時点では見えません。
けれど、それによって職を失う人、家族を巻き込まれる人、
最悪の場合、自ら命を絶つ人もいます。

本当にそこまでのことだったのか?
誰もが「自分は違う」と思っていたはずなのに、
全体として見ると──確実に、ひとりの人間を潰していた。

しかも皮肉なのは、
多くの人が「怒って」いるのではなく、
怒りによって気持ちよくなっているということです。

拡散には報酬があります。
共感され、称賛され、「あなたが正しい」と言ってもらえる。
それは、まるで手軽な快楽のようです。


どうすればいいか──というより、どう「立ち止まるか」

「こうすれば正しい」なんて万能の答えは、ありません。
ただ、少なくとも一つの問いは持ち続けていたいと思うのです。

この拡散は、自分の言葉か? それとも誰かの感情のコピーか?

そしてもう一つ。

それを拡げることで、誰が救われ、誰が傷つくのか?

自分が“正しさ”を行使しているとき、
そこにはほんの少しの「力」が宿っています。
だからこそ、その扱い方には慎重でありたい。


拡散は、情報を伝えるための道具にもなれば、
暴力を増幅する凶器にもなります。

それを選び取るのは、私たち自身です。


次回はさらに、
その背後にある「見えない暴力」と「ネットの野蛮さ」について、
もう少し深く考えてみたいと思います。

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